第2章 世界を体験する choiyaki
p051.私は学び、考え、内省する機会を与えるという難しい仕事を遂行できない言いわけに、このようなことばを安易な妥協として使ってしまう博物館があまりにも多いことに危惧を抱くのである。
外発的動機づけと内発的動機づけの関係と同じ、と感じた。内発的な動機を生み出せればいいが、外発的な動機づけを用いることで内発的なものが芽生える、かもしれないからやる、と。
体験的=外発的、内省的=内発的。
問題を「解ける」楽しさを感じさせることができれば、解く動機が高まり、それが内発的動機につながるのではないか、っていう。まさしく、「解ける」楽しさは体験的であろう。で、博物館と同じように、解けるようにならせることを、考えて理解するという内省的な営みを提供できない言い訳に使いがちやよな、と思った。
p053.体験的思考はわれわれの感覚に到達する情報のパターンによって駆動される反応的、自動的思考である。しかし経験という大きな貯蔵庫に依存しているのである。
まさにシステム1的。
p056.内省的な推論の場合には、体験的認知の場合と違って推論の深さに関する限界はないが、その代償として、処理が遅くまた面倒になる。
まさにシステム2的。
体験的思考は、経験という大きな貯蔵庫を活用して、その瞬間に反射的な反応・判断を生み出すことができる。が、推論は浅い。一方で内省的思考は推論の深さに限界はなく、深く深く推論を重ねていくことができるが、遅く、面倒で、起動しないことが多い。
体験的も内省的もどちらも大事で、重要。
p059.内省的、体験的のどちらの場合でも道具は見えてはいけないー邪魔になってはいけないのだ。
p061.充実した毎日の暮らしに娯楽と仕事が両方とも重要であるように、精神生活の豊かさには体験的思考と内省的思考が重要である。これらのバランスをきちんととることが現代社会に課せられた厳しい知的挑戦なのである。
体験的思考と内省的思考のバランスをとることが、なぜ「厳しい知的挑戦」なのか?
体験的思考なのに、内省的思考をしたと勘違いする。
提供されるものは、体験的思考に寄りがちである。
p061.三種類の学習
蓄積
調整
再構築化
p062.良い概念的背景をもたない場合には、蓄積には時間がかかり骨の折れるものになる。
これはほんとそうで、自分で学んでる時も、新たな単元を教えてる時にも感じる。特に、三角関数や対数など、ある数を定義によって定めた時は、慣れ親しんだ文字や数から離れてしまうので、概念的背景をもたない状況になっており、そこを乗り越えることが困難な生徒が一定数出てきてしまう。骨の折れるところをどうするか、か。
p063.練習が何をもたらすのか?練習はスキルを調整するのである。練習は小さな行動の単位を何千も集めたような形で知識を構造化する。その結果、初期の段階では意識的な内省を要したスキルが、自動的に意識せずに体験モードで行えるようになる。体験的思考とは調整された思考なのである。
この後に蓄積と調整は主として体験モードと述べられるけど、蓄積によって内省の俎上に上げ、調整によって内省を要するスキルを体験モードに持っていく、という感じかな、と思った。
p065.私が注目していた認知的な変数よりも動機づけの方がずっと強力であることがわかったのである。強く動機づけられた学生は、興味をもたないものよりずっとよくその題材について学習したのである。
p075.良いプレーヤーになるためには、集中が必要である。これが体験モードの本質である。しかし、学び、向上し、自分自身を鍛えるためには自分のパフォーマンスに対する内省が必要である。これによってどこを変えるべきか、どこをそのままにすべきかをよりよく理解することができる。
「振り返り」の重要性。メタ認知。自分がどこを理解しているか、を理解すること。
でも、振り返りだけではよろしくなく、集中/体験モードで取り組む時間も必要。
p080.解決策は、教師とゲーム製作者それぞれが尽くせる最善のことを組み合わせることである。教育者は学習すべきことが何かを知っている。学習の際に要求される集中を高めたり引き出したりすることが下手なだけなのである。エンタテインメントの世界は興味と興奮を作り出す方法を知っている。エンタテインメントの世界は情報と画像を扱うことはできる。しかし何を教えるべきかについては知らない。われわれはこれらの技術を融合することができるはずだ。
ぼくとしては、ここに解決策はないのではないか、と思ってる。「強く動機づけられた学生は、興味をもたないものよりずっとよくその題材について学習したのである。」とあったが、その興味というのは、果たしてエンタテインメントによって引き出されるものであるのか。学習に対して強く動機づけられている学生が抱いている興味と、エンタテイメントによって興味を掻き立てらている学生のものは、全く違ったものではないか、と。作り出された興味と興奮は、学びによるそれとは異なるもので、相容れないとまでは言わないけど、結構な隔たりがあるのではないか。
あとは、教師が何を教えるべきかを知っている前提で話されてるけど、教師も何を教えるべきかなんてわかっていないと思う。その教科を学んだこと/教えた経験から、教えた方がいいと思うものを持っているだけで、それが本当に教えるべきものなのかとは別だろう、と。何を教えるべきかは、本当のところはわからない。学ぶ人それぞれによっても違う。
教師が教えるべきことをわかっているという前提の危うさと、学習に対する意欲と、エンタテイメントによって喚起される興味・感心との質の違い。この両者を仮に掛け合わせることができたとしても、それは果たして解決策になるのか。
p082.教育に用いるマルチメディアは、余計なものを最小にし、ユーザーが、やらなければいけないからではなく、やりたいから一所懸命学べるようなものではければならない。教育者は、生徒がいやいや苦労してやるような、融通のきかない、ペースの決まった、独善的な指導をやめなければならない。
一方で、これは完全に同意。余計なものは最小であった方がいい。本書では、マルチメディア目線で述べられてるけど、教育者の働きかけにも言える。で、「教育者は、生徒が、、、」以下に述べられているのは、もう完全にその通りやと思う。
教えすぎなんやと思う。あるいは、恣意的すぎるというか。教育する側が恣意的に導こうとしすぎな感が強い。確かにそれが必要な部分はあるのかもしれないけど、それにしても、と思う。
エンタテイメントを否定した形になったけど、やってみるべきではある。何が正解か、正しいかはわからないし、それを日常的かつ科学的に測定・判断することも難しい。かなりの部分は、教育をする者の経験に依存すると思われる。一見正しいと思えないものも、実は大いに効果的な部分があることは否定できない。やってみてもわからないかもしれない。でも、違ったことを試してみて、教える側が日々異なる経験を学びを得ることはできる。反対に、色々試さないと、教育をする者の中の考えが固定化されてしまう。それが一番よろしくない。それこそ融通がきかなっていくし、独善的にもなっていく。教師とゲーム製作者を挙げて、「われわれはこれらの技術を融合することができるはずだ。」と述べられているけど、他にも掛け合わせることのできる技術というのはいくらでもあるので、うまい融合を目指してあれこれ考え、試していくことで何がいいのかを探り続けることしかできないと思っている。
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と書いて他の人のメモを読ませてもらったけど、ぼくの著者の主張に対する理解が浅いがための反論であるなと感じた。というか、前に書かれていたことを忘れて今の部分を読んでしまっているので、著者のほんまの主張の部分を掴みきれていないというか。
使われてる言葉が場所場所によって違うことも関係してるかも。エンタテインメントという言葉からは、いかにも体験的である印象を受けるけど、ここまでに書かれてきたことを鑑みると、体験的・内省的なものの両者を含んでいるものをさしている、と思われる。
何かに喚起されるのではなく、自発的に内省が行われるようになることが、動機づけられている状態と言える。
「自発的な内省」こそ内発的動機づけではないか。
自発的な内省。これこそが!って思う。これが行われるように持っていくことができれば、すばらしい。知識がないと好奇心がわかない理由にもなる。知識がなければ、自分がどこがわかっててどこがわかってないのかさえ認識することができない。つまり、自発的な内省が生まれようもない。
で、それが道具によるものであったとしても、表立ってそうではないのが求められる道具。
そのようにデザインすることができればいいのか。